大学休学。いてもたってもいられない気持ち

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母子家庭に支払われる奨学金で大学に入学した。その後も、もんもんとし続けていた。

若い時の感受性はその時だけのもの。早いうちに色々なものを見ないと、僕は「知らないこと、見たことのないものがある事に慣れてしまう」と焦りを募らせていった。

以前書いたモンゴルのマンホールチルドレンたちを見た時の衝撃は、あの時だったからこそ、その後の考え方に大きく影響を与えた。

年をとってからでは、知らないこと、見たことのないものを経験した時に受け取れる熱量がひどく下がってしまうと考えていた。ソクラテスの「無知の知」は、年を重ねていくことで失ってしまうように思えた。

 

くすぶり続けた海外放浪への気持ちは、ちょうど20歳の大学3年に上がる時に、いてもたってもいられずようやく行動へとつながった。

大学を休学して少しの間バイトして資金を作り、そのお金で海外でバックパッキングをしようと決めたのである。

帰ってきて大学を辞めたくなったら辞めればいい、今、動かないと「自分らしさ」を一生失ってしまう。そう感じていた。

 

母親は案の定あっさりと納得してくれ、大学に休学届を提出した。

 

猛烈にバイトして、インド行きの半年オープンチケットを買った。

時給1000円でファミレスのデリバリーと深夜のキッチンを掛け持ちし、このとき1ヶ月で28万円くらいは稼いだ。バイト先の控え室に冷凍食品の段ボールを引いて仮眠し、次の出勤時間まで最大限休むことができた。3ヶ月ほど資金作りに費やし、夏の真っ盛りやっと念願が叶った。

 

生活のための荷物と本が詰まった70Lのバックパックを背負い、ついに、南インドのトリバンドラム空港に降り立ったのだ。

 

夜中に着いた僕は、じっとこちらを凝視してくる肌の黒い人々に囲まれ、しびれるほどの自由を感じていた。

 

当時家には良く効くクーラーが僕の部屋にしかなかった。熱帯夜のときなどは、母親は僕の部屋の床の上に布団を引いて時々寝ていた。出発前日の夜、僕はベットに、母親は布団を床に敷いて同じ部屋で寝た。

暗闇の中、「不安じゃないの?」という母親の声が聞こえた。

「うん、不安だけど」と答える僕。

「行くのやめちゃいえば」。いつも強気で大抵のことは許してくれていた母親だが、子供が良くわからない所へ行く。

日本から出たことのない母親にとってはとても心の負担が大きかったのだと思う。

「もし心から不安を覚えることがあった、そっちの方には行かないでね」

この時の母親の声色を今でも覚えている。

直感に従って、まずいなと思うことからは離れなさいと。

暗い部屋の中、最高のアドバイスをしてくれた。

 

空港に降り立ってしびれんばかりの自由を感じたのも束の間、居心地がだんだんと悪くなり、次第に何だか恐くなってきた。

早くホテルに着きたい一心で、タクシーに乗り込んだ。

 

方向感覚が全く掴めない夜中の路地を抜け、何事もなくホテルに到着。その夜は落ち着かなさすぎて、朝方にようやく眠りについた。

 

こうして僕のバックパッカー初日が終わった。

 

その後、孤独とぼったくりとヒッピーの聖地ゴアを経て、ムンバイのゲストハウスに宿をとった。

 

インドのぼったくりに関して触れておくと、そもそもインドの売店なんかでは定価が表示されていないので、ぼったくりも何もない。言い値があるだけだ。

日本の感覚だと表示価格があって、それを見て決めるわけだが、インドは逆で客を見て商品の値段を決めているのだろう。だから、さっき同じ水を3ルピーで売っていたのに、自分の番になったら20ルピーとかになる。

でも今考えるとビジネスの基本のようにも思う。需要と供給によって価格が決まる。

香辛料がシルクロードをとってヨーロッパに届く前は、安い価格で販売されていた。ヨーロッパで希少な香辛料は、お金がある人間が欲しがり始め、高値で取引されるようになっていった。

 

ある夜、夕食を食べ終わってゲストハウスの廊下を歩いていたら、僕の隣の部屋のドアが空いていた。視線を中に向けると、ドレットの女性がベットに腰掛けて本を読んでいた。

目が合う。軽く会釈して通り過ぎる。

部屋に戻ったあと、部屋が狭く暑いので(実際は隣の部屋がちょっと気になっていたので)、僕もドアを開けることにした。

しばらくすると、「ちょっと聞きたいのだけど、美味しいカレーが食べれる所知っている?」ドアから顔を覗かせて、向こうから話しかけてきた。

 

名前はドリーン、確か22か23歳、ドイツから来たばっかりだという。インドの事情がいろいろと違うのでちょっと困っていた。少し部屋の中で話をしていると、ゲストハウスのスタッフが現れ、見知らぬ男女が同じ部屋に入るのは禁止されていると、注意を受けた。そのルールが良くわからないながら、会話をやめて部屋に戻っていった。

その2日後ちょっと窮屈なゲストハウスをチェックアウトし、ちょっと歩いたところにあるホテルの1室をドリーンとシェアすることにした。英語がろくに話せなかったのだが、僕に英語で話す機会をたくさん作ってくれ、ドイツ社会のことを色々と教えてくれた。

 

2週間ほど一緒に過ごし、彼女はコルカタへ、僕は北インドに向かうため、別れた。

バックパッキング中に出来た初めての友達だった。

 

ひたすら減り続ける資金と時間に不安を覚えながら、デリーを抜け、ダラムサラで瞑想をし、コルカタに着く頃には、バックパッカーという生産性の低い活動に疑問を持ち始めていた。

時にはひとりぼっちの孤独と闘いながら、その後、タイ・ラオス・カンボジアと3ヶ月バックパッカーを続けた。