中学卒業。どうするか迷う
自分の人生がどうなって、スイスにたどり着いたのか振り返ってみたいと思う。
- 中学卒業。どうするか迷う
中学3年になった頃、初めて進学を考え始めた。
小学生のとき叔母にシアトルに連れて行ってもらったことがある。
小学生の僕は、ファーストフードのペプシのカップの大きさに度肝を抜かされた。シアトルのナイキショップに感動し、いろんな肌の人がいることに感動した。
兄と一緒に連れて行ってもらったのだが、当時兄弟喧嘩の真っ盛り。もちろんアメリカに行ってもそれは変わらない。ある喧嘩の時に、兄に向かって中指を立てた。その瞬間、それまで仲良く話していたホストファミリーがギョッとした顔でこちらを見て、眉毛が一直線に見えるほどしかめっ面をした。中指を立てると言うのは、かなりきつい感情表現だったらしい。
僕たちが生まれたのはいわゆるDVの家庭。家庭内暴力が絶えなかった。親父は酒を呑んで帰ってきて機嫌が悪ければ暴れる。母親も兄もひどくやられた。
父親は建設会社を興し、自営していた。小さいながらも社長という立場で、仕事が大変だったのだろうと思う。きつい時にこそ人間性を試されるわけなんだけども、父親はその自分との戦いに負け、自分を律していくコントロールができなくなり、暴力という形で発散していたのだろう。
母親と兄の3人で丸くなってよく泣いたのを今でも思い出す。
家を今すぐにでも飛び出したかった。ここではないどこかへという想いが強かった。
アメリカの高校にいきたいと考え始めた僕は担任に相談したり、親戚の叔母さんに相談したりして道を模索していた。しかし、一番言わなくてはいけない母親にはなかなか言い出せなかった。
父親の日常的な暴力から母親を守りたかったし、絶望の中で僕たちを懸命に育ててくれている母親をそのまま置いていくことはできなかったのである。
そのまま言い出せずに、進路を決めなくてはいけない時がきたのだが、YesともNoとも決めれずにタイムオーバーになった。
母親を置いてくことの苦しみ、異国の地への不安、経済的な理由があってどうしようもできない。タイムオーバーだから仕方ないと、そのまま自分の希望を尻すぼみで終わらせたのである。
端的にいうと、ビビって答えを出さずじまいにしたのだ。
自分が納得する答えを見つけることもできず、15歳の自分にはひたすら恐かったのである。
コンフォートゾーンから出るのが恐くて、何もせずに終わった。
この時のことを今でも思い返す時がある。特に本などで、若い時にアメリカに行って大人になり活躍している著名人を知る度に思い返す。
あの時行くと決めて進んでいればもっと違う今があるのではないかと。暴力を受けている母親を守るため、経済的に難しいから、などと真っ当な理由づけをしていたつもりだったが、そんなものは結局のところ、どうにでも解決できる問題だったのだ。
つまるところビビってやめたのである。
そのつど、後悔と自分に対する情けなさが湧き上がってくるのだが、しかし、この後悔は今はとても良い道標になっている。
1つは、ビビって逃げ出したくなるようなことが目の前に現れたら、進んでYesの方に歩いていくようにしている。ビビって何もしなかったあの後悔をもう一度味わいたいのかって、自分に言い聞かせるのだ。答えはとてもかんたん、味わいたくない。
2つめは、それでもなお、ビビるようであれば、Noを選ぶ。でもとにかく自分で決めた答えだと確証を持つことが大事。そうすることで後悔にはつながらない。
NoならNoで自分で決めたという自覚があとあと、ああすれば良かった、こうすれば良かったという、苦い気持ちを味わうことを少なくしてくれる。
僕の性格なのだろうが、決めきれず、どうしても一旦保留にしてしまうことが山ほどある。
向き合わず、なんとなく決めないことは、あとあと自分に後悔をもたらす。
緩和ケアの介護に従事し、多くの患者を看取ったオーストラリア在住の作家ブロニー・ウェアは書いている。
『なかでも、患者さんたちが何よりも後悔していたのは「自分に正直な人生を生きればよかった」ということだった。』
これまでの人生を振り返った時、実現できなかった夢の数がはっきりとわかるのだろう。
するかしないかはどちらでも良い、それよりも「決めること」がとても大事なんだと長い時間をかけて学んだ。
当時の僕は、あやふやなまま、アメリカ留学を諦めて、地域の高校に進学することにしたのだった。