スイスのコロナ対応と給与補償の話
コロナが流行って、減益している会社はどのように従業員に給与を払っているか、スイスの給与補償に関して書いていきます。
- スイスのコロナの始まり
- 給与補償の仕組み
- 失業者数と給与補償者の数
- 働かなくてもお金がもらえる
2020年2月15日にヨーロッパで初めてコロナによる死者が出て以降、各国で感染者の報告が続々と増えた。それまで対岸の火事と思っていた人々も徐々に深刻に受け止めるようになって、職場でも話題に上がるようになった。
- スイスのコロナの始まり
2020年2月25日にスイスで最初の感染者が確認された以降、3月初旬に増加し初め、3月16日、前日には328名の感染者だったも関わらず1065名の新規感染者を確認。
当日に疫病のアラートとして最上位の非常事態宣言が発せられた。これによって州政府が持っている権限が制限され、連邦政府が危機に対応する決定を下す状態になった。物流とセキュリティのため軍隊の8000人が投入された。
アラートの種類を下書いておきます。ヨーロッパは疫病と戦ってきた長い歴史があるので、この辺りの法律がしっかり整備されていて感心する。興味ない方は飛ばしてください。
スイスの疫病に関するアラートの種類
・Nomale Lage (平常事態)
疫病に関する法律では、平常時には基本的に州が疫病法(EpG)と疫病条例(EpV)を実施し、伝染病の予防と管理のための措置を命じる責任があると規定されています。州は、個人(検疫、隔離など)や団体(イベントの禁止など)へ、対処するための様々な手段を自由に利用することができます。これらの措置は疫学法で規制されています。通常の状況では、例えば、情報や勧告、出入国に関する措置などの分野で、連邦議会は限られた権限を有しています。さらに、州による法律の実施を監督し、スイス国内で統一的な実施に州が関心がある場合にはその調整を行います。
・Besondere Lage (特別事態)
特別な状況下では、通常時の州の責任である一定の措置を、連邦理事会が自ら命じる権限が与えられています。これは、調整機関や保健局長会議との協議など、州の意見を聞いた後にのみ行われます。
特別事態となる状況は下記のシナリオです。
通常の法執行機関が一定の状況下で適切な措置を講じることができなくなった場合には、特別事態となります。
さらに以下のいずれかの条件を満たしている場合。
感染拡大リスク、公衆衛生上の脅威、深刻な経済的影響、世界保健機関(WHO)が国際保健規則の下で健康上の緊急事態を確認し、スイスの公衆衛生が危険にさらされている場合には、特別辞退となります。
特別事態では、連邦議会は以下の措置を命じることができる。
・個人対策に対する措置(例:イベントの禁止や制限。学校、その他の公的機関、民間企業の閉鎖、営業規制、特定の建物、地域、特定の場所での活動への出入りの禁止、制限など)
・感染症対策に医師を参加させる
・予防接種を義務化する
・権限は法律に網羅的に記載されています。連邦議会は、特定の政令(特定の行事の禁止など)または条例(スイスや特定のカントンでの公 共の行事の禁止や制限など)のいずれかの形で措置を命じることができます。特定の状況下では、連邦内務省が連合の措置を調整している。
・Ausserordentliche Lage (非常事態)
公衆衛生に対する異常な脅威が発生した場合でさらなる措置が必要な場合には、連邦議会は、疫学法に基づいてこれを発令し、連邦法に根拠のない警察緊急条例を発行することができる。特に感染症の分野では、予見できない急性の重大な公衆衛生上の脅威が今後も予想され、法律には具体的な規制がない。国内の治安が危うくなりかねないこれらのケースでは、迅速かつ的を絞った介入が可能でなければならない。憲法緊急事態法は、連邦議会が迅速に、ケースバイケースで適切な措置を命じることを可能にしています。そのため、「特別事態」とは対照的に、立法府レベルで特別な状況を詳細に定義することはできません。
※2020年9月30日現在でレベル2の「特別事態」に引き下げられてます。
確かに、非常事態宣言が発令される前後から、山間部の駅でも軍人と警察が警備しているのをよく見かけるようになった。立法府の規定なしに、軍隊や警察を投入できるのか。恐るべし非常事態宣言。
そして、イースター休暇を間近にした、3月19日、スイス全土で生鮮食品を扱うスーパーなど以外の、生きていく上で不可欠でない商店、映画館やクラブなどの娯楽施設、レストランなどの営業が禁止され、事実上のロックダウンが始まった。もちろんスキー場も。
さらに5人以上の集まりを禁止にしたり、自宅でのリモートワークが推奨されたり、公共交通機関の運行が激減したり、握手の代わりに肘を軽くタッチする挨拶にかわった。
ただ外出禁止ではなく外出自粛であったため、外でスポーツなど個人の活動は許されていた。
オフィスでの仕事は継続が可能であったため、事業を継続しているところが多く、通勤が自粛されリモートワークに切り替えられた。道路には車も少なく、電車の中は、ひと車両に自分1人という時もあった。
この頃にスイス軍は備蓄されていた防疫資材を放出し、素早く病院に配備。国境は全体的に閉じられ、認可を受けた人以外、EU諸国からの出入りも事実上できなくなった。
- 給与補償の仕組み
商店やホテルで働いている人、レストランのコックや給仕、タクシーやバスの運転手、ゴンドラのチケット係に至るまで、多くの人が仕事をストップせざるを得なくなった。
客もいないし、そもそも多くの場所が営業禁止なので働けない。当然売り上げも立たず、経営者は固定費を払えない。人々の給与はどうなったのか。
スイス政府はロックダウンから10日以内に、すぐにコロナの影響によって減益が生じる企業への給与補償の受け入れを開始した。この短時間操業による給与補償は、もともと不可抗力による企業の経済的困窮に対応するために、従業員の給与を税金で補填、補償する制度でコロナ以前より整備されていた。これが適用された。
どのくらい補償されるかというと、なんと給与の80%が補償される。
なかなか想像がつかないと思うが、働かなくても給与が税金から支払われるのだ。
連邦政府が計算例として挙げていたものを引用する。給与金額に驚くと思うけど、これがスイスクオリティなのだ。
①生地作る人(織物職人)で額面で給与をCHF3’910もらっている人、受注がなく全く働けなくなった場合。
ちなみに、スイスの月給の最低賃金がこのくらい。
この人は3’910×80%=CHF3’128が給与補償で額面の給与になる。
②銀行のマネージャー、額面で月給CHF11’500をもらい、勤務は普段の50%しか出来なかった場合。
50%は勤務しているので、雇用主が11’500×50%=CHF5’750を負担。
給与補償として(11’500×80%)×80%=CHF4’200が支払われる。
この人の給与額面はCHF9’950になる。
この給与補償にも上限があって、補償対象は月給CHF10’500まで。なので、月々CHF20’000もらっている人も、CHF10’500と計算されている。だからこの銀行のマネージャーの場合も、(11’500×80%)×80%=CHF4’600ではなくて、(10’500×80%)×80%=CHF4’200となる。
ここから税金等で20%前後控除されるけど、生きていける。というか全然、普段と変わらない生活を送れる。
全く働けなくても、生地作る人はCHF2’500くらい、銀行のマネージャーはCHF6’700くらい、手取りでもらえるのだ。
雇用主は従業員を当面は解雇せずに済む。
通常は煩雑なこの申請を、コロナ発生後は簡素化して、申請者がすぐに申し込めるようにした。補償を受けるにあたって、雇用主は前年度の売上や社会保険費の納税金額等を提出する必要があるけど、実際に売上が減損あるいは見込みがあれば、ほぼこの給与補償申請は受理され、州政府から会社の口座に振り込まれ、従業員にそれぞれ支払われる。
州政府側の確認作業も楽になり、あっという間に承認されるようになった。不正受給も発生するだろうが、監査をやろうと思えば後からでもチェックできる。何より失業者が増え、失業保険の支出が増える。会社は必要な時に人がすぐに確保できないので生産性が落ちて、経済が低迷する。人々が困窮してお金が回らなくなった場合は、さらに治安が悪くなる。こういったさらなる社会的コストが発生する方が、一部の不正受給よりも多くの不利益が発生するのだろう。スイスの行政官の処理能力もそうだが、政治家も非常に優秀だ。
ただ6月1日から会社の経営者や管理職のポジションの人、並びに職業訓練のため籍を置いている従業員は給与補償の対象から外された。
最初の申請は6ヶ月間有効で、その後は3ヶ月ごとに延長するかたちとなる。トータルで最長12ヶ月が補償される。
当初は最長12ヶ月と規定されていたが、これが2020年9月1日改定され、最長18ヶ月となった。
会社は18ヶ月間は少なくとも従業員を守ることができるようになった。
18ヶ月もあればビジネスモデルを見直し、体制を立て直し、新規サービスで売上を作ることができる。もちろんコロナ後の世界に対応できなかった事業は駆逐される。それはどこの世界も一緒だ。今が経営者や企業家の正念場なのだ。
12ヶ月から18ヶ月に延長した背景としては、コロナ前のように経済が正常化するのに、12ヶ月以上かかると連邦政府が考えているからだろう。2020年3月からこの異常な状態が始まったと考えると、2021年9月までは雇用を税金で守る必要があるのだろう。
税金が高くこれまで国民がたくさん支払ったから、給与補償に回せるお金が国庫にあるんじゃないの?
と思われるかもしれないが、これまで5年スイスに住んでみて、個人にかかる税金は正直日本とほぼ変わらないと感じる。給与から控除される金額は日本もスイスも20%前後だし、消費税はスイス7.7%日本は10%。給与関係以外で個人にかかる税金は逆にこちらの方が安く感じる。車持っている人なら重量税があるが、これも収入との割合でいったら日本の方が高い。出かけるときに高速使えば、日本は必ず通行料払わないといけないけど、こちらは年間CHF50支払えば乗り放題。
もちろん国ごとにそれぞれ違う問題があるので、日本が悪くてスイスが良いという議論がしたいわけではなく、どういう状況なのか理解するために書いてます。スイスの生活費に関しては別の記事でまとめます。
- 失業者数と給与補償者の数
コロナ前とコロナ後で、どのくらいの人たちが職を失ったのか。
2020年2月で117’822人、失業率は2.5%。2020年8月には151’111人で3.3%となっている。大体、2ヶ月後くらいに発表があるので現状これが最新です。
規模感としてはスイスの人口857万人で、20歳から64歳までのいわゆる生産年齢人口は527万人くらい。失業率の母数は有給雇用者数というもので464万人。その中で15万人が失業したということ。
で給与補償の状況はというと、2020年4月には131’069の法人が申請し1’077’041人が給与補償を受け取った。直近の公式の発表では2020年6月で法人数52’405、488’312人が対象となった。ちなみに1年前の2019年6月は84社で1’507人であった。
すごい数の人が給与補償を受けている。企業は一時的な雇用の喪失を回避し、雇用を維持することができる。短縮操業による政府からの給与補償は、経営者に解雇に代わる選択肢を提供している。
受け取る側は、スイス国籍を持っているかいないかは関係なく、会社と労働契約書を交わしていて会社が短時間操業に申請していれば、貰える。
SECO(スイス連邦経済事務局)のスイス労働市場各月レポート
- 働かなくてもお金がもらえる
この給与補償を申請した会社の従業員は、働かなくてもお金がもらえている。
コロナが始まって、これまで働くことで給与もらっていた人々のおよそ4人に1人がそれを体験した。直近のデータを見ると、8人に1人は今もその状態にあると考えられる。
最低賃金で働く人も、手取りでCHF2’500くらいは貰えるのだ。
実際に僕の周りでも週2回働いて、週5日は全て休み、あるいは週3日午後だけ勤務の人もいる。家で鼻糞をほじっていても、庭先に吊るしたハンモックに揺られていても、お金がもらえるのだ。今はロックダウンも外出自粛もないので、旅行も行ける。コロナによって国境が閉じられる可能性が常にあるから国外は難易度高いけど、国内であれば問題ない。
おそらくこの状況は日本では信じられないだろう。正直僕自身もあまり信じることができないでいるが、4月から実際に従業員に向けた資金が州政府から入金されており、今もこの状況は続いている。
暇でする事がないと訴える人もいるし、自分のやりたいことを加速させている人もいる。イノベーティブな人々はどんどん先に進んでいく。もちろんスイスでも行動する者と行動せざる者に分かれている。政府や行政官が優秀だから、もしかしたら将来そのツケを払わなくても済むかもしれない。それに怠けるとか怠けないとか言った議論は対して重要じゃない。
自分が幸せだと、他人が怠けていようがいまいが基本的にどうでもいい。
言えるのは、人々の暮らしはとても安定している。今の不安が取り除かれている事で、ストレスが少ない。社会保障が機能していることは、個人の生きる喜びをこれっぽちも阻害しない、むしろ貢献する。
スイスは世界的な健康と危機にうまく対応し、安定しており安全、という世界の富裕層からの評価によって、スイス大手8銀行の預かり資産は、2020年1月から6月に総額800億フラン(約9兆2千億円)増えている。タックスヘイブンと比べると税制は必ずしも有利ではないが、社会と経済が安定して安全という評価はこう言ったところにも波及している。
ちなみにスイスは世界で最もイノベーションが進んでいる国別ランキング「グローバルイノベーションインデックス」で10年連続1位になっている。社会保障はイノベーションやクリエイティビティの邪魔にはならずむしろ貢献しているように思う。
個人的には、もらっていてもいなくても、そういった社会に住むことで安心して生活する事ができるし、自分の人生に対して挑戦ができる。
自分に賭けてみようと思える。実は、個人の人生の質にも大きく影響を与えている。
スイスの給与明細と税金の話
今回の内容はこんな感じ。
- スイスの給与ってどのくらい?
- 手当は?
- 給与から引かれる費用は何がある?
- 所得税はどうなってるの?
- その他絶対必要なやつ
- 締め
2022年くらいから海外移住がより大きなトレンドになりそうですね。
というのも日本では実質賃金が下がり続けている中で、サラリーマンでやっていく場合、この先のことが非常に見えづらい。収めている税金で社会保障制度が機能している実感が持てず、精神的な将来への不安やこれまでの生活が物理的に維持できないことが予想される。円高を維持できなくなると円安が進んでいよいよ不景気になる。社会にゆとりがなくなると、犯罪が増える。そして都市部ではゲーテッドコミュニティに住めるか住めないかで大きく、生活の質が変わる。そんな世の中、なんだかいやですよね。
これは日本だけのことではないけれど、AIやロボットの進化が止まらない中、今自分がやっている仕事、あるいは自分の専門領域が5年後に通用するのかどうかもわからない。
日本の「景気後退やQOL(クオリティオブライフ)の低下」と「人を使わず成果を出せる事業が増える」
この2つの動向が次第に顕著になってくれば、地方移住、海外移住がますますトレンドになってくるはず。
地方移住は、IターンUターンという言葉がもう十数年前からあるように、今は人生の選択肢の一つとして持っている人も多いはず。
海外移住はどうか。これはビザの問題も出てくるため、なかなかハードルか高い。そして本当に必要な情報がまだ十分でない。僕が海外での生活を憧れていたとき、特にお金にまつわる情報があまりなかった。
今回はそのお金の部分、特に給与とそれに関連する税金の話です。
- スイスの給与ってどのくらい?
税金の計算するために25歳未婚無宗教の日本人がベルン州で働くことにします。
スイスでサラリーマンやっていると大体こんな感じの給与明細になると思います。
ちなみにこれは僕が勝手に作りました。
キャリアがなくて専門性がなくても採用されるポジションであれば、gross(もろもろ引かれる前の給与)でCHF4000くらいかな。もちろんそれ以上もらえるところもあるけれど。日本で同じ条件で見たらgrossで22万くらいですかね。大手スーパーで未経験の人がフルタイムで働く場合、CHF3’900からCHF4’100が初任給のようです。
実はスイスは連邦政府として最低賃金を定めていないんです。でもなぜだか給与が良い。このあたりの話はまた今度書きます。
- 手当は?
日本はたくさんの手当がありますよね。
通勤手当や業務手当や役職手当や配偶手当や扶養手当や残業手当や住居手当や特別手当。めちゃくちゃたくさんあるな。
スイスは結構簡単で月給制の場合、本給これです、これで週5日働いてください。以上。と言う感じ。通勤手当は基本的に最初はないと考えた方がいいです。
役所関連の仕事やIT関係の仕事、ある程度のポジションであれば通勤手当が支給されるところが多いと思います。その場合、住んでる場所の鉄道会社にもよりますが、だいたいスイス国鉄の区間指定なし、GAと言われる電車バス乗り放題パスが支給されます。本給の他に年に1度ボーナス出すよと言うところが多いです。これはだいたい月給の金額が支給されます。それゆえ「13ヶ月目の給与」という言い方したりします。毎年11月か12月に入金されるか、あるいは12ヶ月で割られた金額が、月々給与に加算されます。
時給制の場合は時給算出するのにもう少し、項目増えるので別の機会にします。
ちなみに子供手当はスイスもあります。州によって金額大きく違いますが、子供1人につき月CHF200前後です。
その他職責によって手当つけているところもありますが例外だと思った方がいいです。スイスの一般的な手当は大体こんなものかと思います。
- 給与から引かれる費用は何がある?
給与から引かれる費用は、だいたい日本と同じで老齢/遺族年金、失業保険、などの社会保険費です。一応、それぞれしっかり書いておきます。
AHV 老齢/遺族年金・・・国がやってる老齢と遺族年金のために払うもの。5.275%で誰しも率同じ。
ALV 失業保険・・・基本1.1%。年収CHF148'200を超えると、パーセンテージが段階的に上がっていく。
NBU 労災保険・・・1.543%。このパーセンテージは業種と雇用主によって変わるけど、年齢では変わらない。だいたいこのくらいの数字の前後
BVG 企業年金基金・・・日本の厚生年金的なもの。老齢/遺族年金では将来制度が持たないので、導入されたもの。月収CHF1’777.50以上、年収CHF21'330以上かることになる。
月収CHF1’777.50以上、年収CHF21'330以上から強制的に加入しなければならないので、週2日とかの勤務でなければ、これも給与から引かれることになる。
年齢によって金額が変わる。25-34歳で7%、35-44歳で10%、45-54歳15%、55-65歳で18%という具合に上がり、最大18%。
計算方法は自分のGrossの年収を出した後、CHF24'885を引いて、プラスが出ないようであればCHF3'555に自分の年齢の%をかけた金額が、企業年金として引かれる。
引いた後の数字がプラスになればそこに自分の年齢の%をかける。例えば年収CHF40'000であれば、BVG対象の金額はCHF15'115、これに自分の年齢の%をかける。年収がCHF85'320以上あると、CHF60'435が上限になって、それ以上BVGの対象となる金額は上がらない。年収CHF100'000でも、控除される企業年金基金は年収CHF85'320の人と同じ。
まぁややこしいんで手取りイメージするときにCHF150くらいはこの項目で引かれると思っていれば良いと思います。
病気で休んだ際の給与補償のための保険・・・雇用主によって控除するかしないか決めていい。レンジは0.4%から4%まで。月給制でこれを設けているところは少ないと思う。なので、ここでは加味せず。
- 所得税はどうなってるの?
所得税は、源泉徴収または確定申告で払わなければいけません。
源泉徴収で所得税的なものを月々払わないといけない人は誰か?
外国人で滞在ビザがLだったりBだったりすると源泉徴収として毎月自動的に給与明細から引かれます。スイス人やEU国籍の人と結婚している人、スイス滞在が長くてCビザの人、以外は源泉徴収。
どうやって決まってるか?
州、宗教、結婚や子供の有無で決まる。年齢では決まらない。上記の条件で見たら8.54%。これは累進課税。例えば月CHF10'000稼ぐと17.01。月収CHF50増えると0.05%から0.06%上がっていく設計です。どこまでの収入が載っているのかリストが見たらCHF300'000が上限で36.86%でした。紙面の表記の都合上ここまでしか載せられないのだろう。金持ちが多いスイスはこれに収まらない人がいっぱいいる。
源泉徴収の%載っている政府のサイト載せておきます。Tarife herunterladen
確定申告で所得税的なものを払う場合は?
スイス国籍の人や滞在ビザC、あるいは結婚した相手がそのどちらかだったりする人。ちなみに確定申告する場合は、源泉徴収はされなくなる。スイスは実は全国民が年に1回確定申告をする国なんです。理由は、役所がすると役所の煩雑な手続きが増えて費用が増えるから。ということらしく、頑なに全員必ず年に1度確定申告制度を維持しています。これに基づき納税金額が決まります。これは日本で言うところの所得税です。源泉徴収に当てはまらない人は、みんな確定申告しています。
確定申告の金額はSteuerberechnung natürlicher Personenここで計算してください。控除項目がどのくらいあるかにもよるけど、大体年収の10%から17%くらいが所得税的なものとして持っていかれます。
- その他絶対に必要なやつ!
その他絶対必要な月々の費用として医療保険があります。スイスで住むには誰もが健康保険に入らなくてはなりません。義務です。日本のように国が維持する皆保険ではなく、民間が維持する実質的な皆保険になっています。民間の医療保険会社に申し込んで、プランを選んで契約します。
民間なんでそれぞれ価格差がありますが、補償内容が少ないものであれば月々だいたいCHF200くらいです。
さぁ、どのくらい給与残るのだろうか。
タターン!!!CHF3’300!!!114円(2020年9月18日現在)換算で37万6200円!!
「25歳未婚無宗教の日本人がベルン州で働く」さんの手取りとして自分の元に残ります。
どうですか日本での給与と比べると多く感じませんか?日本でGross22万円だと17万円前後ですかね。
ぼんやりとスイスは税金高いイメージありますが、スイスも日本も控除される割合は20%前後でほぼ同じです。
これを資本に毎月やりくりします。この金額、夢ありますよね。
ここから家賃や食費やらを払っていくわけですが、スイスは物価が高いことで有名です。このあたりのことは別の記事で書きたいと思います。
- 締め
サラリーマンになりたての頃は、給与明細を見るのが毎月楽しみで、上から下までじっくり見てましたが、今はどうでしょう。もちろん給料日はいつも待ち遠しいけど、今は昇給があっても大体数字の予想がつくので、給与明細を見る楽しみが減ってしまいました。
それどころが、日本では、サラリーマン向けの税金やら社会保険やらのアップデート頻度が多くて、控除金額が上がるばかりで手取りが減って見るとネガティブになるよな。社会はもちろん支えたいけど、肌で感じる費用対効果がなさすぎるよな。
特にコロナのような社会全体の危機があると本当によくわかる。皆さんはどうですか。
ではまた。
大学復学。生産的な時間に憧れる
- 大学復学。生産的な時間に憧れる
6ヶ月間のバックパッキングを終えて、結局のところ大学に復学した。
というのも、何かを実質的に生み出していないことで、日に日にもどかしさがたまり放浪を楽しめなくなっていた。生み出していないどころか、消費しかしていなかったので、財布の中身はどんどん減っていった。
とりわけ何かを生産していなかったとしても、そこに在ること、BE HERE NOWそれ自体を楽しみ続けられれば良かったのだが、早く次のステージ行きたい思いに駆られていた。
大学生に戻るということは、その先のことをある程度予測できて、自分にとってはとても生産的な行為に感じられた。
復学の手続きをし、何となく大学の掲示板を眺めていたら、海外留学のプログラムのお知らせがあった。提携している海外の大学に交換留学することができ、選抜時の評価によっては学費が免除される制度であった。ヨーロッパには3カ国ほど提携先の大学があり、ドイツの大学とも提携していた。
ドイツに行きたい。放浪中にドリーンからドイツのことを聞いてとても興味を持っていたし、海外留学に憧れ続けていた僕は、鼻息を荒くしてこのチャンスを掴むしかないと決意した。
しかし、留学するためには、履修授業の成績が影響し、さらに語学試験をパスしなければならなかったのである。
休学前まで、ひたすら悶々としていた僕は履修した授業、ほぼ全てにおいて中の下の成績であったため、絶望的な状況であった。そして、語学試験の課題であるドイツ語を何一つ知らなかった。
こんな状況にもかかわらず、モチベーションを維持できたのは、ドイツの大学は応募者が少ないと言うことと、放浪中にためにため込んだ何かを生み出したいと言う強烈な意思であった。
それまでの思いもしなかった、いろいろな点がつながっていて、ぼんやりとその先を形作ろうとしていた。
春に復学し、次の選抜試験までの1年間、履修科目をめいいっぱい増やし、ドイツ語の授業をとって、大学の図書館に篭り続けた。不安と希望の中、図書館からよく見た夕焼けを今でも思い出す。
学費半額免除と寮費免除という自分としてもギリギリ受け入れられるラインで合格し、ドイツの大学に留学できる事になった。
留学先はスイス国境のすぐ近く、ボーデンゼーの湖畔に位置するコンスタンツ大学だ。
大学休学。いてもたってもいられない気持ち
- 大学休学。いてもたってもいられない気持ち
母子家庭に支払われる奨学金で大学に入学した。その後も、もんもんとし続けていた。
若い時の感受性はその時だけのもの。早いうちに色々なものを見ないと、僕は「知らないこと、見たことのないものがある事に慣れてしまう」と焦りを募らせていった。
以前書いたモンゴルのマンホールチルドレンたちを見た時の衝撃は、あの時だったからこそ、その後の考え方に大きく影響を与えた。
年をとってからでは、知らないこと、見たことのないものを経験した時に受け取れる熱量がひどく下がってしまうと考えていた。ソクラテスの「無知の知」は、年を重ねていくことで失ってしまうように思えた。
くすぶり続けた海外放浪への気持ちは、ちょうど20歳の大学3年に上がる時に、いてもたってもいられずようやく行動へとつながった。
大学を休学して少しの間バイトして資金を作り、そのお金で海外でバックパッキングをしようと決めたのである。
帰ってきて大学を辞めたくなったら辞めればいい、今、動かないと「自分らしさ」を一生失ってしまう。そう感じていた。
母親は案の定あっさりと納得してくれ、大学に休学届を提出した。
猛烈にバイトして、インド行きの半年オープンチケットを買った。
時給1000円でファミレスのデリバリーと深夜のキッチンを掛け持ちし、このとき1ヶ月で28万円くらいは稼いだ。バイト先の控え室に冷凍食品の段ボールを引いて仮眠し、次の出勤時間まで最大限休むことができた。3ヶ月ほど資金作りに費やし、夏の真っ盛りやっと念願が叶った。
生活のための荷物と本が詰まった70Lのバックパックを背負い、ついに、南インドのトリバンドラム空港に降り立ったのだ。
夜中に着いた僕は、じっとこちらを凝視してくる肌の黒い人々に囲まれ、しびれるほどの自由を感じていた。
当時家には良く効くクーラーが僕の部屋にしかなかった。熱帯夜のときなどは、母親は僕の部屋の床の上に布団を引いて時々寝ていた。出発前日の夜、僕はベットに、母親は布団を床に敷いて同じ部屋で寝た。
暗闇の中、「不安じゃないの?」という母親の声が聞こえた。
「うん、不安だけど」と答える僕。
「行くのやめちゃいえば」。いつも強気で大抵のことは許してくれていた母親だが、子供が良くわからない所へ行く。
日本から出たことのない母親にとってはとても心の負担が大きかったのだと思う。
「もし心から不安を覚えることがあった、そっちの方には行かないでね」
この時の母親の声色を今でも覚えている。
直感に従って、まずいなと思うことからは離れなさいと。
暗い部屋の中、最高のアドバイスをしてくれた。
空港に降り立ってしびれんばかりの自由を感じたのも束の間、居心地がだんだんと悪くなり、次第に何だか恐くなってきた。
早くホテルに着きたい一心で、タクシーに乗り込んだ。
方向感覚が全く掴めない夜中の路地を抜け、何事もなくホテルに到着。その夜は落ち着かなさすぎて、朝方にようやく眠りについた。
こうして僕のバックパッカー初日が終わった。
その後、孤独とぼったくりとヒッピーの聖地ゴアを経て、ムンバイのゲストハウスに宿をとった。
インドのぼったくりに関して触れておくと、そもそもインドの売店なんかでは定価が表示されていないので、ぼったくりも何もない。言い値があるだけだ。
日本の感覚だと表示価格があって、それを見て決めるわけだが、インドは逆で客を見て商品の値段を決めているのだろう。だから、さっき同じ水を3ルピーで売っていたのに、自分の番になったら20ルピーとかになる。
でも今考えるとビジネスの基本のようにも思う。需要と供給によって価格が決まる。
香辛料がシルクロードをとってヨーロッパに届く前は、安い価格で販売されていた。ヨーロッパで希少な香辛料は、お金がある人間が欲しがり始め、高値で取引されるようになっていった。
ある夜、夕食を食べ終わってゲストハウスの廊下を歩いていたら、僕の隣の部屋のドアが空いていた。視線を中に向けると、ドレットの女性がベットに腰掛けて本を読んでいた。
目が合う。軽く会釈して通り過ぎる。
部屋に戻ったあと、部屋が狭く暑いので(実際は隣の部屋がちょっと気になっていたので)、僕もドアを開けることにした。
しばらくすると、「ちょっと聞きたいのだけど、美味しいカレーが食べれる所知っている?」ドアから顔を覗かせて、向こうから話しかけてきた。
名前はドリーン、確か22か23歳、ドイツから来たばっかりだという。インドの事情がいろいろと違うのでちょっと困っていた。少し部屋の中で話をしていると、ゲストハウスのスタッフが現れ、見知らぬ男女が同じ部屋に入るのは禁止されていると、注意を受けた。そのルールが良くわからないながら、会話をやめて部屋に戻っていった。
その2日後ちょっと窮屈なゲストハウスをチェックアウトし、ちょっと歩いたところにあるホテルの1室をドリーンとシェアすることにした。英語がろくに話せなかったのだが、僕に英語で話す機会をたくさん作ってくれ、ドイツ社会のことを色々と教えてくれた。
2週間ほど一緒に過ごし、彼女はコルカタへ、僕は北インドに向かうため、別れた。
バックパッキング中に出来た初めての友達だった。
ひたすら減り続ける資金と時間に不安を覚えながら、デリーを抜け、ダラムサラで瞑想をし、コルカタに着く頃には、バックパッカーという生産性の低い活動に疑問を持ち始めていた。
時にはひとりぼっちの孤独と闘いながら、その後、タイ・ラオス・カンボジアと3ヶ月バックパッカーを続けた。
高校卒業。どうするか迷う
- 高校卒業。どうするか迷う
もんもんとしながらも地域の高校に進学し、バンドを組んで音楽したり、バイクに乗ったり、バイトしてお金を稼ぎ好きなことに使ったり、「バ」から始まる単語に占領された高校生活を送った。
写真データがゆっくりと表示されていく家のPCを駆使してヒッピーについて調べたり、沢木耕太郎の『深夜特急』や小田実の『何でも見てやろう』、ロバート・ハリスの『エグザイルス』を読んだりして、ここではないどこかへという気持ちは、単純な海外への憧れは放浪というかたちに作られていった。
高校1年のとき、親戚の叔母さんが国際的な教育支援を行っているNGOのツアーに参加させてくれた。タイの農村部に小学校を作るプロジェクトが進んでおり、その視察と手伝いにいくフィールドワーク型のツアーであった。
高校3年のときには、同じNGOを通してモンゴルの孤児支援を行っている現地プロジェクトのフィールドワークツアーに参加させてもらった。
兄と共に参加したのだが、この2つの経験は、自分たちが住んでいる「豊かな世界」と「貧しい世界」を五感を通して認識させてくれた。
特にモンゴルのウランバートルは強烈だった。モンゴルの孤児の多くは、親に捨てられたり、暴力が原因で家を飛び出してストリートに住むようになる。
僕らと同世代の孤児たちは、凍てつく冬を生き延びるため、マンホールの中に住んでいた。汚水が溜まり、ゴキブリやネズミが這う場所で暮らしていた。
兄が移動中のバスの中でふと「俺らもこうなってたかもしれないよな」と呟いたのを今でも覚えている。
生まれた国が日本でなければ、暴力のある家で育った僕ら兄弟もこうなっていた可能性が大いにあった。自分の行為の結果ではなく、選択肢はもとからなく、すでに決定づけられていて、自分の力ではどうしようもできないことが、たくさんあるのだということを身を持って知ることができた。
だから人種差別に心から辟易するし、嫌悪する。
そして、常に弱者の側にありたいとも思うようになった。
また進路を考える時が来た。高校卒業した後、何をするかだ。
海外を放浪するか、大学に入って興味あることを勉強するか。
高校を卒業して大学に進学するのは比較的簡単なことだが、高校卒業から大学入学というルートを一度離れてしまうと、そこに戻るのが難しいように感じた。勉強したくなった時に大学に入学できるのか不安であった。
しかし、それ以上に、まわりにあるよく見慣れた道、同じような道を選択した方が安全に感じたのだ。今思うと実際はそんなに難しいことでもないように思うのだが、当時は頭を抱えるほど悩んだ。
要はここでも、人と違うことをするのにビビったのである。
コンフォートゾーンから出れなくなっていた。
そして、僕は大学に入学した。
中学卒業。どうするか迷う
自分の人生がどうなって、スイスにたどり着いたのか振り返ってみたいと思う。
- 中学卒業。どうするか迷う
中学3年になった頃、初めて進学を考え始めた。
小学生のとき叔母にシアトルに連れて行ってもらったことがある。
小学生の僕は、ファーストフードのペプシのカップの大きさに度肝を抜かされた。シアトルのナイキショップに感動し、いろんな肌の人がいることに感動した。
兄と一緒に連れて行ってもらったのだが、当時兄弟喧嘩の真っ盛り。もちろんアメリカに行ってもそれは変わらない。ある喧嘩の時に、兄に向かって中指を立てた。その瞬間、それまで仲良く話していたホストファミリーがギョッとした顔でこちらを見て、眉毛が一直線に見えるほどしかめっ面をした。中指を立てると言うのは、かなりきつい感情表現だったらしい。
僕たちが生まれたのはいわゆるDVの家庭。家庭内暴力が絶えなかった。親父は酒を呑んで帰ってきて機嫌が悪ければ暴れる。母親も兄もひどくやられた。
父親は建設会社を興し、自営していた。小さいながらも社長という立場で、仕事が大変だったのだろうと思う。きつい時にこそ人間性を試されるわけなんだけども、父親はその自分との戦いに負け、自分を律していくコントロールができなくなり、暴力という形で発散していたのだろう。
母親と兄の3人で丸くなってよく泣いたのを今でも思い出す。
家を今すぐにでも飛び出したかった。ここではないどこかへという想いが強かった。
アメリカの高校にいきたいと考え始めた僕は担任に相談したり、親戚の叔母さんに相談したりして道を模索していた。しかし、一番言わなくてはいけない母親にはなかなか言い出せなかった。
父親の日常的な暴力から母親を守りたかったし、絶望の中で僕たちを懸命に育ててくれている母親をそのまま置いていくことはできなかったのである。
そのまま言い出せずに、進路を決めなくてはいけない時がきたのだが、YesともNoとも決めれずにタイムオーバーになった。
母親を置いてくことの苦しみ、異国の地への不安、経済的な理由があってどうしようもできない。タイムオーバーだから仕方ないと、そのまま自分の希望を尻すぼみで終わらせたのである。
端的にいうと、ビビって答えを出さずじまいにしたのだ。
自分が納得する答えを見つけることもできず、15歳の自分にはひたすら恐かったのである。
コンフォートゾーンから出るのが恐くて、何もせずに終わった。
この時のことを今でも思い返す時がある。特に本などで、若い時にアメリカに行って大人になり活躍している著名人を知る度に思い返す。
あの時行くと決めて進んでいればもっと違う今があるのではないかと。暴力を受けている母親を守るため、経済的に難しいから、などと真っ当な理由づけをしていたつもりだったが、そんなものは結局のところ、どうにでも解決できる問題だったのだ。
つまるところビビってやめたのである。
そのつど、後悔と自分に対する情けなさが湧き上がってくるのだが、しかし、この後悔は今はとても良い道標になっている。
1つは、ビビって逃げ出したくなるようなことが目の前に現れたら、進んでYesの方に歩いていくようにしている。ビビって何もしなかったあの後悔をもう一度味わいたいのかって、自分に言い聞かせるのだ。答えはとてもかんたん、味わいたくない。
2つめは、それでもなお、ビビるようであれば、Noを選ぶ。でもとにかく自分で決めた答えだと確証を持つことが大事。そうすることで後悔にはつながらない。
NoならNoで自分で決めたという自覚があとあと、ああすれば良かった、こうすれば良かったという、苦い気持ちを味わうことを少なくしてくれる。
僕の性格なのだろうが、決めきれず、どうしても一旦保留にしてしまうことが山ほどある。
向き合わず、なんとなく決めないことは、あとあと自分に後悔をもたらす。
緩和ケアの介護に従事し、多くの患者を看取ったオーストラリア在住の作家ブロニー・ウェアは書いている。
『なかでも、患者さんたちが何よりも後悔していたのは「自分に正直な人生を生きればよかった」ということだった。』
これまでの人生を振り返った時、実現できなかった夢の数がはっきりとわかるのだろう。
するかしないかはどちらでも良い、それよりも「決めること」がとても大事なんだと長い時間をかけて学んだ。
当時の僕は、あやふやなまま、アメリカ留学を諦めて、地域の高校に進学することにしたのだった。
日本脱出 海外移住 選択するということに関して
日本を脱出して、海外移住したいと考えている人たちの参考になれば良いと思う。僕がスイスに住むことになった経緯を交えて書いていきたいと思う。
- 現在、自分にある選択肢を調べる
- 自分の興味と重なる選択肢を採用する
- いつまでにというスケジュールを決め、もしダメだったらプランを考えておく事
- 一度、出る事。出たら戻らない決意をする
僕の経験に当てはめて説明していくとこんな感じだ。
- 現在、自分にある選択肢を調べる
僕の場合は大学時代にドイツに留学したことで、ヨーロッパにまた戻って来たいと強く思っていた。留学期間が決まっていたため、ドイツで生活しながらも終わりがある事をとても意識していた。その間何を考えていたかと言うと、どうやったらまたドイツに戻ってこられるか。
日本に帰ったあとも、「また戻ってきたい」「海外で暮らしたい」という思いがあったが、どうすれば良いかわからなかった。行動を起こすための具体的な方法が自分の中になかったのだ。
自分にどんな選択肢があるのか、周りの人に聞いたり、知人を頼ったり、ネットで検索して、徹底的に調べて情報収集した。
学生ビザ、就労ビザ、ワーホリ、在外公館派遣員、ビザの種類を調べ、興味があることと選択肢を比較しながら海外移住のプランをわからないながらも練っていった。
そして、ある程度の選択肢はわかった。あとはどれにするかだ。
- 自分の興味と重なる選択肢を採用する。
仕事経験をすぐに積みたかった僕は、日本の企業を通してドイツに来れるようにしようと考えた。
自分が希望する国にその会社の関連法人があるのか、出向先があるのか、親会社が海外にあるのか、いくらでも調べられる。
意外な日本の会社がヨーロッパに法人を持っていたりする。
この駐在員プランが自分にはグッときた。一度日本でその会社に就職し、がむしゃらに働いて、その会社に認められタイミングさえ合えば、ビザがあり仕事の保証があり、という恵まれた待遇を得られるのだ。
会社のビジネスが自分の好きなことで成り立っていて、そして海外赴任ができること。
この基準で会社を探して、幸運にも採用された。
この選択肢を選んだ当時の僕は、出来る出来ないではなく、するかしないかというところまで追い詰められていたのかもしれない。未来が、つまらない今の延長線上でしかないような気がして不安でしょうがなかった。今見ている景色がそのまま死ぬまで続くかのような恐怖に取り憑かれていた。
僕が就職した会社はドイツに法人があるわけではなくスイスに法人があったのだが、ドイツ語が公用語でありドイツとは目と鼻の先で、自分の手でドイツ法人を立ち上げることも可能ではないか、と勝手に思い自分ならできると信じて夢を膨らませ続けた。
そして誰よりも先に仕事を覚え、会社に貢献しようと努力を重ねていった。
- いつまでにというスケジュールを決め、もしダメだった場合のプランを考えておく事
どうしても海外移住したかった僕は、もしもダメだったら案をワーホリビザに設定した。
ドイツのワーホリ取得年齢期限である31歳の誕生日を迎えるまでに、どうにもならなそうだったら会社を辞めて、ワーホリでドイツに行く。というダメだったらこうするという別案を持っておいた。これはその後、しんどくなった時の心の支えにもなった。
このワーホリ案によって、「いつまでに声がかからなければ、こうする」という会社で過ごす時間のデッドラインが決まっていたことで、仕事で多少の無理もする事ができ、試練にも耐える事ができた。
採用後は何かにつけスイスにいかせてくださいと周りに売り込み続けた。とにかく周りに言い続ける。これも大事なのだと思う。
そして、ある朝勤務していると内示の電話がきた。「スイスに行ってくれるか?」と。
- 一度、出る事。出たら戻らない決意をする
駐在員として働いていると、良いも悪いも常に日本に戻る時のことを考える。特に悪いことが起こりそうな時、起こった時に、日本に帰ればという考えがすぐ頭を過ぎる。
「今持っているビザが切れるので、一度日本に行ってからまた戻ってこようと思う。」そのように話す友人もいた。仮に日本に帰ったらほとんどの場合、戻ってくるにはより多くの時間がかかると思う。
日本は戻りません。そう決める事が、困難をチャンスに変える機会だし、異国の地で新たな世界を切り開いていくために大事なことのように思う。
スイスの場合、観光地であればハイシーズンだけ人手が欲しいので短期労働ビザを手配してくれるお店やガイド会社、山小屋、あるいはレストランがある。このあたりはツテさえあればなんとかなる。3〜6ヶ月の短期だけど、住んで働いてみることができるのは大きい。ツテはSNSで行きたい場所のコミュニティ見てみて、日本人がいればラッキー。その人にダイレクトメッセージして、情報収集するのが手っ取り早いと思う。協力してくれる人はたくさんいるはず。
また、スイスにはヤングプロフェショナルビザというのがあり、雇用予定者から労働契約書がもらえればヤングプロフェッショナルビザの申請が可能となる。あまり申請者が少ないからか、比較的取りやすく最大1年間フルタイムで働くことができる。
意外に世界は近くてすぐに手が届く。
日本を脱出したい、海外移住したいという方にとって、駐在員プランは気が遠くなるような期間かもしれない。
しかし僕の場合は就職してからちょうど4年で日本を出ることができた。その間に、どのようにビジネスが回っているのか、日本の会社の承認メカニズムを知ることができた。
幸運にも「ダメだったらプラン」を使うことなく、今も好きな会社に所属できている。
たまに他の会社の駐在員と話す時があるのだが、ほとんどが「後任が見つからない」と嘆いている。日本の会社では駐在員候補不足なのだと思う、特にヨーロッパは。
海外を目指す人にとってはチャンスなんだと思う。ビザがあって、仕事があって、という待遇は非常に恵まれている。そこに手を上げていくこと、手を上げ続けること、は実は遠回りのようで近い。そして逆説的だが、いつでも戻れる場所があることで多少しんどいことにも耐える事ができる。
すぐにでもと気が焦りがちだが、日本脱出、海外移住を目指す人には駐在員プランをお勧めしたい。